~ 歌詞でよむ初音ミク 59 ~ おにぎりのテーマ
おにぎりのトラジコメディー
「VOCALOID食堂入り」タグ。アレンジはシンプルながら、疾走感があってなおかつとても綺麗なメロディの一曲。過剰な演出をしないミクさんのとぼけた声が、寓話としてのおもしろさを引き立てています。曲・詞ともに、わたしょさんです。
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「僕」のまえに、一つの「おにぎり」がありました。
「このおにぎりは、明らかに生きて」いました。
おにぎりは、「食べられるのなんて嫌だ!」と言いました。
そして「風になりたい」と告げて、夕陽の中へ飛び出していきました。
もちろん「僕」は怒ります。
「食べようと思っていたのに!」「おにぎりのくせに生意気だ!」
しかし彼は、おにぎりを少し泳がせてみることにしました。
本当に風になれるか試してみればいい。それまでは空腹も我慢してやる、と。
おにぎりが向かったのは「風の丘」でした。
そこは名前のとおり、非常に風の強い場所。
心配する彼をよそに、おにぎりは「僕を空に投げて」と言います。
馬鹿げてると思いながらも、不思議なことに、彼はなんだかおにぎりを信じてみたくなったのです。
彼は、思い切っておにぎりを空へと投げました。
おにぎりは一瞬、光を放ち、消えてしまいました。
それっきり、会うこともありません。それでもなぜか近くにいるような気がするのです。
彼は「風になったおにぎり」のことを忘れないぜ、と誓うのでした。
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さて、おにぎりという卑小なものが、哲学的で壮大な願望を抱くところに、
コント的なおもしろさがあるのは言うまでもないのですが、
“風になろうと思ったら、なれた。おめでとう!”という話なのでしょうか?
おそらく誰もが感じる疑問が、3つあると思います。
(1). おにぎりはなぜ風になりたいと思ったのか?
「風」そのものより、"おにぎりのままでいたくない"という事のほうがポイントだと思います。このおにぎりは「だれが作ったかわからない」存在でした。そして「食べられるのなんて嫌だ!」と考えます。これは自分は何者なのか、なぜおにぎりなのか、というアイデンティティーの悩みに近いものです。
(2). 「僕」は、ふざけるなと思っていたのに、なぜ信じたくなったのか?
もちろん、おにぎりの悩みがむやみに大げさなところに笑いがあるのですが、おそらく「僕」はこの悩みにつっこみながら、どこか共感するものがあったのでしょう。だからこそ、「おにぎりのくせに」と思いつつも信じてみたくなったと。
(3). 最後におにぎりはどうなったのか?
「風になった」というのは、そのままの意味だとハッピーエンドな変身なのかもしれませんが、"荒れ狂う風のなかに放られて分解してしまった"、とも考えられる気がします。要するに、"バラバラの米粒となって散った"。それゆえ、集合体の"おにぎり"としては消えたけれど、「ここにまだいる気がする」のではないでしょうか。
さて、これらを (1)「おにぎりのアイデンティティー問題」の文脈でまとめなおすと、
「おにぎりは自分の領分を超えた願望のせいで、自己崩壊してしまった」ようなものです。
おにぎりはおにぎりでしかなく、それを拒めば ”おにぎり” ではいられない。
けっこう冷酷な事実ですが、これを「僕」はどう受け止めたのでしょうか。
おもしろいことにそこでこの曲は終わっています。
ただし一つだけ分かるのは、彼は決して「僕も!」とは言わなかったことです。
彼は、おにぎりの向こう見ずな野心に共感するところもありながら、おにぎりの道を選ぼうとはしませんでした。
「おにぎり」に焦点を当てるともっぱら熱血ですが、
「僕」目線だと一歩引いているのが分かります。
そこにこそ、トラジコメディー的 (喜劇でありながら悲劇的でもあるような) 面白さがある気がします。おにぎりとは、「僕」にとってありえたかもしれない青春の投影のような存在だったのかもしれません。