~ 歌詞でよむ初音ミク 115 ~ 動物のすべて

 単なる動物への賛歌?

VOCALOIDと歌ってみた」タグあたりでしょうか。ピノキオピーさんが前面に出て踊っている作品となっており、情熱的な人間の声と、飄々とした合成音声がおもしろい対比と不思議な調和を見せています。曲・詞ともにピノキオピーさん。

 

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「とがった牙 鋭い爪」が「怖い怖い怖い」のは当たり前。

「野生の掟 言うこときかない」から「やばいやばいやばい」のも当たり前。

「猫だからニャーと鳴いた」り「犬だからワンと鳴いた」り、

当たり前を当たり前にする。それが動物的な本能、と二人は歌っています。

 

その基本的なことを忘れて、人間はおよそワイドショーが好むようなウケの良いことや、テンプレ的なちょっと難しげなことを追いかけています。それが人間の、人間だけの鳴き声だって?

 

そんなものは「真のロックじゃない」、「真の芸術じゃない」。

真の芸術とは、ロックンロールとは、「それは動物」。「結局、動物」なのだ、と。

つまり「弱肉強食」「適者生存」「愛」「罪」・・・要するに「動物のすべて」。

 

そして歌詞の内容と呼応するように、歌詞そのものも原始的でミニマルなものになっていくのです。「動物 動物 動物」!

 

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もちろん普遍的なテーマには何度でも胸を熱くさせるものがあるのですが、

動物賛歌というのは、わりとオーソドックスな主題かもしれません。

 

考えてみたいのは、それをピノキオピーさんだけでなく、

合成音声のミクさんが一緒に歌っている点です。

 

人間なんてしょせん動物。言わずもがなです。

でもさすがに合成音声は動物じゃないのでは? 単なる皮肉やお遊びでしょうか?

 

そこでわたしは、

定義が少なくなればなるほど当てはまるものは増える・・・という反比例を思い出しました。

恋愛の条件を減らせば、恋愛対象が増えるのと同じですね。

 

同じようにこの曲が "真のロックとは動物的なものだ" と歌えば歌うほど、

ロックンロールの定義は原始的な(根源的な)ものへと絞られていくのですが、

おかげで逆にそれを歌える者は増えて広がっていく、と。芸術も然り。

 

つまり原初的なものは、救いをあたえるのです。合成音声にさえ。

ロックや芸術とは、格好良くみせることよりも、救いをあたえることなのかもしれません。

 

それはピノキオピーさんの曲に通底しているテーマのような気がします。

なんの因果か、この世に生まれてしまったあらゆる存在――「嫌われて また仲間はずれの人」、だらしない人間で「空を泳いでる君」、うまくいかず「壊れて世界を憎む人」も含めて――に向けられた愛しみのような。 こうした、動物とは一見関係のない人たちが出てくるのは偶然ではないと思います。

 

だから最も動物的じゃない機械音だって

"動物的なもの" を歌うときちゃんとロックをやってるのです。

人間が歌ったって、格好よくみせようとしたカタチだけのロックや芸術もあるのです。

 

オーソドックスに動物的本能の賛歌だけを歌っているというより、

それがひるがえって老若男女に雌雄同体、そして機械音までも、あまねく救いにつながっているということに、ピノキオピーさんの音楽があるのではと思ったりします。