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~ 歌詞でよむ初音ミク 129 ~ ミルククラウン・オン・ソーネチカ

「許し」なんかいらない。

可愛いフリをした「かわいいミクうた」。複雑に乱高下するポップでスリリングなメロディに、流れるような歌詞でいっぱいに満たされた一曲です。曲・詞ともにユジーさん。 

 

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「わたし」は、才能もなく妄想ばかりの「ガラクタ」。

 

「色も塗ってくれなかった」と悲しんでいるのが比喩なのか、

文字どおり色素欠乏を抱える女の子なのかはちょっと断定できませんが、

内面にも「汚く濁った願望」を抱え、「取り繕って罪悪隠した」女の子です。

 

他人からは笑われて、ごまかすように作り笑いをしてみても、

「上手に笑う」ことができなくて、余計にみんなを苛立たせてしまう彼女。

 

それで「たぬき寝入り」を決め込んで、石になったようにやり過ごすのですが、

「背中に指をさされてる感覚」が息苦しくて、「消えちゃいたい」。

 

けっきょく周りの人たちからまともに取り合ってもらうには、

「出来損なった愛玩具」であることを認めて、

「みじめな態度で許しを乞う」必要があるのです。

 

そうすれば「愛」が与えられる、「許し」を受けられる――そう信じてたのに。

 

「愛を説いて満足気な教科書」は、

「わたし」みたいな「持たざる者が懺悔したって知らんぷり」でした。 

 

「踏んだ方もそれなりに心が痛いとか言ってた」けど、

「膝を折って耐えていたって助けてもくれなかった!」。

神さまは、ガラクタが「懺悔したって知らんぷりですか」。

そんなの「あんまりじゃないですか」?

 

そこで彼女は、自分自身に「小っちゃな戴冠式」を行ったのでした。

許しを乞う側から、王のように自分の意志で歩みはじめるのです。 

 

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どうしてソーネチカ(=”ソフィアちゃん”の意)が選んだのは、

ミルククラウン (ミルクに水滴を落としたときの反動) の王冠だったのでしょうか。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるソーネチカが、

むしろ主人公 (ラスコーリニコフ) を「許し」へと導く、いわば聖女のような存在だったことを思い合わせてみるのも、一つの楽しみ方かもしれません。

 

ソーネチカは売春婦でした。

それゆえ彼女もまた、自らの宗教的な罪に苦しんでいました。

他人への「許し」には、得てして自分も「許されたい」という感情があるものです。

しかし彼女は主人公に対し、聖女のようにふるまうばかり。

 

他人のことばっかりで、自分自身のことは誰も許してくれなかったとしたら?

「天にまします神さまだって こんなガラクタ御手汚しですか」?

わたしはそんなソーネチカの姿を思い浮かべました。

 

だから「びっくりするほど馬鹿馬鹿しい」ことに気づくのです。

「掃いて捨てるほどありふれた無垢な感情」に対して、

「何をもってして浄・不浄だって振りかざしちゃって」いるんだろう?

「嘘ばかり...世界に罪とか」なんて。

 

たしかに許すためには、許すべき罪があらかじめ必要になります。

許すというのは、罪のない人に対しては、巧妙に罪を負わせる手段でもあるのです。

 

彼女が、「許し」ではなく "王冠" を選ぶことによって

服従の道を拒んだのは、いわば許されることへの反発なのかもしれません。

 

許せる人だけを許すような「愛の教典」や「聖人の名文句」なんて「ちんぷんかんぷん」。それだったら「許し」なんかいらないよ。

 

ミルククラウンが、水滴を垂らしたときの "反発" で生じるのと同じように、

彼女が自分に与えた小っちゃな王冠も、勝手な「許し」への反発から生まれたと考えてみるのもおもしろい気がするのです。