~ 歌詞でよむ初音ミク 131 ~ 色彩電気

"いのち" の拭いきれない色

「トンデモポップ」タグ。ポップでひょうきんな音楽とともに、ほの暗い不気味さのある作品。ミクさんならではのどこか間の抜けた声もあって、可愛さと恐怖がないまぜになっています。曲・詞ともにムシぴ さん。

 

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「身体」をもたない「電気」の僕。

どこにも実体のない自分への不安と「バイバイ」するために、

彼はこの世のありとあらゆるものを「噛んで飲み込む」ことによって、

その物体の「色を纏う」のでした。

 

そんな中、彼は「レモンの色」を探していました。

そして「黄色の雨具を羽織ってる」子供を見つけたのです。

 

嬉しくなって胸が高鳴った彼は、その子供ごと飲み込みました。

噛み砕き、飲み込んで、消化して、その子は「跡形もなく」なりました。

 

ところが、形はなくなったのに、赤い色だけが残りました。

黄色を飲み込んだはずなのに、「僕」は赤色に染まってしまったのです。

 

その赤はいくら水を飲んでも消えず、

「元の姿」、「純粋で透き通る電気」に戻りたいと思っても、もう無理なのでした。

そして「ぐるりと目は上を向いた」彼は、その場に倒れてしまいます。

 

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この「電気」と「色彩」は、

ちょうど ”神経” と ”血液” の関係に近い気がしませんか。

 

2つとも体内を張り巡っている存在ですが、

“血液” は液体として、空間に位置を占める実体なのに対し、

神経が伝える ”電気” は、力あるいは関係と呼ばれるものに近く、それ自体は空間的な広がりを持ちません。

 

“いのち” もまた、モノには還元しきれない力やエネルギーのようなものです。

だから「電気」の「僕」は、自分のことを ”いのち” と勘違いしたのかもしれません。

 

そんな「純粋で透き通る電気」にとっては、

色彩なんて単なるお飾りでしかなく、

 

けっきょくは余分なもの、不純物であり、汚染であり、

「身体」に近づけて言うなら ”垢” のようなものでしかありませんでした。

 

ところが、たとえ ”いのち” そのものはカタチをもたないとしても、

不思議なことに、それは必ずカタチあるものに宿って生きていきます。

 

そのいわば矛盾した現実が、

「身体」のない「電気」には理解できなかったのではないでしょうか。

 

じっさい、

「神経」は、死んだカエルの筋肉でも「電気」を与えると痙攣するように、

生命とは別にはたらく反射、いわば電気の信号に近いのですが、

 

「血液」は、流体力学的に扱えるものでありながら、

生物学的にも文化的にも、生命と切っても切れないものです。

 

子供を食らった血の色が、「電気」の「僕」から消えなくなったとき、

逆に、生命とは「純粋で透き通る」ものではなく、むしろ "垢にまみれること" なんじゃないかと思えてきます。

 

「彩る星に生まれたのに 命はこうも 強く赤く」。

電気の「僕」にとっては、色を制約された嘆きでしかないこの言葉が、

わたしたちには切実な生命の色として感じられるのが、その証拠ではないでしょうか。