~ 歌詞でよむ初音ミク 133 ~ さよなら4月のドッペルさん

またいつか「僕」に逢える日まで

シューゲイザー的「ミクトロニカ」タグあたりでしょうか。かすれた儚い声と音楽が、心地良いようでいて胸が締めつけられる作品です。自失の表現はミクさんの真骨頂だと思わされます。曲・詞ともに、ねこぼーろさん。

 

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4月の風がやってくる季節になると、

「僕」のまえに 『僕』が現われて、ときどき話をするそうです。

 

その『僕』は、生きる理由を滔々と語ります。

「これさえあれば生きてゆけるよ」。

「他はなんにも要らないよ」。

 

「僕」のほうは、「そんなこたないな」と思ってしまいます。

「人ごみ避けて」「漂う様に生きてきた」同じ自分の気持ちは分かるけれど、

そんな純粋さは「きれいごと」だよ、と。

 

こうして考えの合わない「僕ら」は

別に仲たがいや喧嘩をしているわけじゃないのですが、

 

でも、じっさいに「逢ってしまったら駄目」になってしまって、

「ひとつになって かさなる」果てに、「どっちかはいなくなるの」です。

 

「どっちかがホンモノで どっちかがニセモノ」だったらそれで終わりなのに、

どちらが残っても、残ったほうの「僕」は後ろ髪を引かれつづけます。

 

それでも「4月の風が止む頃」には、

『僕』の声は遠くなっていきます。”彼” の存在は「間違い」だった、として。

 

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ドッペルゲンガーと聞くと、すぐに人格の ”分裂” や ”葛藤” を連想しがちですが、

この曲では、「僕ら」はむしろ「仲良し」でした。

 

分裂して葛藤しているわけでもないのに、

「僕」のなかの複数の人格が出逢ってしまったら「駄目」になるのは、

「ひとつにかさな」ったり、「どっちかはいなくなる」しかないからです。

 

そういう意味での「さよなら」であって、対立や葛藤ではなく、むしろ人格の ”吸収” や ”統合” に近いような気がします。もしくは、人格の ”整理” とでも言いましょうか。

 

それは「4月」ということに関係があるのかもしれません。

 

日本における4月とは、新しい環境や人との関わり合いがはじまる季節です。

そのなかでふっと顔をのぞかせる、別の人格、別の人生を送る自分の可能性。

 

とはいえ一人の人格をかたちづくりながら周囲や社会と接していくためには、

別の自分の可能性を切り離したり、飲み込んでしまったりすることも必要だったりします。

 

つまりそれって "大人" になるということではないでしょうか。

ドッペルゲンガーで連想しやすい精神疾患よりも、わたしには "大人になること" を歌っているように感じました。

 

とはいえ、この曲ではもうひとりの『僕』を殺したりするわけではありません。

また「いつか逢えるかな、なんてね」。

大人になっても別の自分、別の人生の可能性は、時折ふっと戻ってくるのかもしれません。