~ 歌詞でよむ初音ミク 151 ~ 毎日がエブリデイ
フィクションのちから
「お洒落なミクうた」タグ。歌詞はけっこうシビアな社会派なのに、複雑で美しいメロディに、とぼけた豊かな音がいっぱい詰まっていて楽しい作品です。脚韻 (文末で韻を踏むパターン) だけじゃない韻の工夫も素晴らしいです。曲・詞ともに、ヤマシロマシロさん。
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「相対する価値観の戦場」みたいな現代に、
「賑わい、色彩できりきり舞いのメディア」。
「パンダ爆誕」から「Murder Case (殺人事件)」まで、
どれももはや「Daily Case (日常茶飯事)」で、
そんくらいじゃ「慄き (おののき)」なんかしません。
「潜在的悲劇」や「アクシデント」はいつも「隙をうかがっている」し、
「救いようのない夢」と「いつも隣り合わせの毎日」。
「安定して不安定」「日常が非日常」になっちゃったこの世界じゃ、
「君を待つ惨状も」、遅かれ早かれ「当たり前になる」でしょう。
「非情の雨」の中だって、「傘を捨てて」ずぶ濡れになってしまえば、
そのうち泥んこになって踊るのも「厭わなくなる」のと同じ。
... たしかにそれだと打たれ強くなるし結構なことだけど、
だからといって私たちが「リアルに染まりきっ」てしまったら、
フィクションがぜんぶリアルに飲み込まれて消えちゃったとしたら、
「そんなノンフィクションは退屈」じゃないかな?
こうして「渇ききって叫ぶ大地にあって」、
「平穏」「安息のゆりかご」を「思いやり水やりで育ててきた」彼女は、
逆に「なんにもない日々」という「フィクションを覗いていた」のでした。
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一般的に、フィクションには「ウソ」という含意があります。
フィクションに騙されちゃダメ、みたいな。
だけどうまく出来た小説にはまた別のリアルがあるように、
フィクションには単なるウソ以上の、「現実の拡張」的な面がある気がします。
だからこそ、現実が過酷なときには「平穏」なフィクションを求めたり、
現実が生ぬるいときには「幻想」のようなフィクションを求めたり。
そこには、現実に染まりきっていたら見えないようなリアルがあったりして、
タイトルと同じく『毎日』が『エブリデイ』でもある、という二重性が見えてきます。
楽しい曲なのに、
一気に不穏になるこの曲の "間奏" みたいなものかもしれません。
つまり現実がどうであれ、それを超えてゆこうとするフィクショナルな力。
そんなフィクションの力が失われないように、
まさにフィクションそのものであるミクさんが、
「手遅れになる前に」さらっと歌い誘っている・・・なんて思いながら聴いてみるのはどうでしょうか。