~ 歌詞でよむ初音ミク 174 ~ よるをおよぐ
ヒップホップとは異なる「言葉遊び」って?
音楽そのものを歌詞のモチーフに扱う作曲家さんは、このブログでも何度か取り上げています (Lemmさんの『Atoropa』など) が、それをポップに偽装したときのかっこよさもすごく素敵です。曲・詞ともに西島尊大さん。
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「午前0時」「5000ページ」といった具合に、
さりげなく心地のいい言葉遊びのリフレインが続くこの作品。
言葉遊びといえばヒップホップ。
なのですが、でも西島さんの場合、
なんだかアプローチがちがう気がしませんか。
日本語は音韻の選択肢が少ないので、
同じ音(似たような音)で、いろんな意味の言葉があります。
で、そこから意外性のある韻を踏み、
「音楽的な」快楽を追求して、言葉遊びをしていくという点では似ています。
でも、ヒップホップ的なリリックと、
西島さんのような歌詞が行き着く場所は、ぜんぜん違っている気がするんです。
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私の勝手な推測ですが(笑)、
ヒップホップ的なライムスは、メッセージへと収束していくのに対して、
西島さんのような歌詞は、韻から生まれた別々の意味をそのままにして、
主張の強いメッセージへと回収しないからではないでしょうか。
その点で、存在しない声のミクさんとも親和性があるのかもしれません。
ヒップホップのように主体的な歌い手は、不在なのですから。
――過干渉な「輩」はまとめて、月の「背」後に埋めてきた。
――「うそ」は、「素敵な"時間"」であって「やさしすぎる"理由"」でもあって。
ヒップホップとは逆に、
似通った音韻が、回収できないイメージへ分裂していくこと。
そうやって「よる(音楽/幻想)」に飲み込まれ、
「流れては、遥かな異国(イメージ)へ」と連れ去られてしまうのです。