~ 歌詞でよむ初音ミク 114 ~ Atoropa
手を伸ばすたび、私を蔑み突き放す幻影
「ミクトロニカ」タグは付いていますが、重低音の効いた部分もあって緩急のある作品。意外性のつよいコードの展開や、恍惚感のある豊かな音彩は、並ぶもののない独特の世界観を織りなしています。曲・詞ともにLemmさん、約2年半ぶりのミク作品です。
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「私」は、声の鳴るほうにある "何か"、に囚われています。
ただし、彼女はそれを明言しないどころか、代名詞ですら徹底して呼びません。
わざわざそれを "何か" と呼んでしまうのが野暮なのは重々分かっているのですが、詩的表現は作品に任せて、ここでは便宜上おゆるしください。
この曲ではこうした、向こう岸から手をふる何か、「私」が手を伸ばして求める何か、との近寄りがたい距離感が歌われています。
この "何か" については、「在る筈のない楽譜」ともありますし、バルザックの『絶対の探究』に出てくるような、いわば芸術家にとっての究極の理想かとも思ったりしますが、別に限定はされていません。それが音楽のことであるか、愛する人であるか、はたまた別の何かかもしれません。
さて、「私」はそれに手を振り返すことができませんでした。
「手を伸ばしても求めただけ遠ざかる」のみ、
「何も掬 (すく) えない」まま疑念と嘘だけが残るのでした。
そんな自分を正当化するのは、拒絶するという仕方でだけ私に関心を向けてくれるという倒錯した独占欲です。「蔑む目で私の事だけを見てくれる?」「突き放す手で私の心だけ触れてくれる?」。
そうやって手が届かないまま、この切なくて苦しい無力感のなかで、
やがて「私はまた きっとここには居られなくなる」と感じ、
彼女は畢竟、耳を閉ざすのでした。
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音楽であれ愛であれ、絶対的な恍惚の状態というのは言いかえれば無の境地であり、意識と自我をもって生まれてしまった人間にしてみれば、瞬間的に触れることはあっても、決して留まることのできない境地です。そのような究極の「楽譜」へ手を伸ばしては、何も掬えないアポリアが歌われているのでしょうか。
だとするとこの終わり方に、“振り出しにもどってしまった”、あるいは "全てを諦めてしまった" と感じる人もいるかもしれません。
でもわたしはそこにもう一つの展開が含まれている気がしました。
「向こう側」にあって彼女が「手を伸ばして求めた」その何かは、あたかも未来について歌っているかのようでありながら、実はずっと彼女の過去を投影しているのではないでしょうか。
「覚えてる」「捧げた過去」「繰り返す」「熟れた」・・・。この曲には過去との深い関わりがあふれています。
未来を過去の投影として考えるかぎり、そこに手が届くことはありません。
なぜなら過去というものは、完全に反復したり再現することが不可能だからです。過ぎて終わって、取り返しがつかないから過去なのです。
私が手を伸ばすその声の鳴る方に対して、「耳を閉ざして(その)音の無い場所へ」歩み出すというのは、だから幻影を断ち切ること、少なくとも過去の投影としての未来を断ち切ることのようにも思うのです。
わたしがこう考えるのも理由のないことではありません。
題名の『Atoropa』とは、ある毒をもった植物を思わせるもので、たとえばベラドンナと呼ばれる毒草の正式な学名アトローパ・ベラドンナ (Atropa Belladonna) の属名(前半部)にあたります。
そしてその語源は、ギリシャ神話のモイラ三姉妹の一人アトロポス (Atropos)、運命の糸を切る女神に由来するのです。
運命の糸を切る――過去の投影や反復でしかない「向こう側」から鳴る声に耳を閉ざすことは、予想された未来にとって一種の "死" でもありますが、それは単なる諦めや逃避どころか、本当の意味で未来へと歩き始めることなのかもしれません。