~ 歌詞でよむ初音ミク 12 ~ 溢れ出した
主語の欠落。言葉をはみだすもの。
VOCALOEDMタグ。ダークな楽曲とミニマルな歌詞、そしてミクさんの押し静めた声の親和性が高く、こみあげてくる静かな激しさといったものを感じさせます。詞・曲ともにnexusさんです。
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タイトルは一目瞭然なように、動詞のみ。つまり「主語」がありません。
ですがこの曲は、いわゆる動きそのもののイメージを詩的に描く手法とはちょっとちがいます。事実、「溢れ出す」という運動自体を細かく描写しているわけではありません。
ここで「主語がない」ことによって強調されているのは、
むしろそれが「名前をもたないもの」「名づけえぬもの」だということではないでしょうか。
さて、「名づけえぬもの」といえば、日本ではしばしば内面性の発露――「衝動」「情熱」など――にあてがわれることの多いテーマですが、面白いことにここでは、そうでもないようです。
「さぁ、何が見える? 何が見える?」と問うたのち、「君の両眼から」「溢れ出した」と繋がるのですから、これは逆に、外界の“対象”を指しているはずです。つまり何かが視界から溢れ出した、と。
この“対象”について、むろん名づけて明示することはできませんが、
どういった類のものか、もうちょっと突っ込んで考えてみることはできるかもしれません。
唯一手がかりらしきものは「鏡の中の私」という言葉。
「息を止める」「耳鳴りが消える」など、身体の内部で動いているものまですべてが静まり、「錯覚を捨て」て外部に映し出された「鏡の中の私」を見たとき、鏡の平面性をこえて(「二次をくぐり」)、そこにいる“対象”――名づけえぬもの、が視界から溢れ出した。
だとすると、それは「私」ですらない“何か”の可能性もあります。
「みんなみんな 全て蘇る」。一切が混濁した“何か”は、私という輪郭をなしくずしにしてしまい、視界のなかに納得しながら収めることのできないものへ。
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ナルシシズムの崩壊を意味しているのかは分かりませんが、
自我の統一を準備すると言われるはずの鏡像が、
主語に収まりきらないものとして「溢れ出した」、と想像してみるのは、
とても興味を掻きたてるイメージだと思いました。
言葉をはみだすものだからこそ、それはある意味不気味で歪なものです。
サビの「溢れ出した」の部分の音楽的なゆがみも、不思議とそこに対応しているような気がします。