【追悼】wowakaさんと初音ミク

今日、ヒトリエやミク曲(ミクルカ曲)で活躍されてきたwowakaさんが若干31歳で急性心不全で亡くなられたと発表されました。

 

突然のことであまりにびっくりしてしまいました。

書き急ぎであっても、何か書かなくちゃと感じました。

 

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部外者のわたしに、

「wowakaさんは音楽的にこういうアーティストだった」

と語る資格はありません。

 

でも一人のリスナーとして、一人のミク好きとして、

彼の作品から感じたことを残しておくのは、

無意味ではないんじゃないかと思いました。

  

wowakaさん本人が語っていたことですが、

彼のミク曲には、wowakaさんとミクさんとの関係

いろんなかたちで滲み出していました。

 

生身のアーティストと、架空の初音ミクとの関係。

 

これがwowakaさんにおいては、

「逃避」から「乖離」、そして「共存」へと移っていったんじゃないかな

と、ものすごく勝手ながら個人的には感じています。

 

もちろんこんなことじゃwowakaさんの作品は汲み尽せません。

 

このブログにできることは、

あくまでミク曲、しかもその歌詞から、

ほんの一部を照らし出すだけです。

 

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【1】逃避 

 

wowakaさんの初期ボーカロイド楽曲は、

生身の自分からの、そして現実からの「逃避」の可能性に満ちていました。

 

これはデビュー作『グレーゾーンにて。』からはっきりしています。

 

「意味のない時代」に「お別れを言いましょ」と言って、

「空想の世界」へ「逃げ」出すこと。

 

この曲から名づけられたボカロP名も(当時はそうした習慣がありました)

その名のとおり「現実逃避P」でした。

 

まったく関係なさそうなテーマの『テノヒラ』も、

「消え去る」人への「さよなら」と、「向こう側」への憧憬であり、

 

『ラインアート』も「過ぎ去った過去」を「忘れ」ることで、

「轟音」のなかのまざりあいを歌っていたのでした。

 

ただし「ごちゃまぜの闇に溶か」すことができるその「妄想」は、

「僕」の「かくれんぼ」のおかげで成り立っていたのです (『とおせんぼ』)。

 

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【2】乖離 

 

その『とおせんぼ』『僕のサイノウ』あたりから、

――それって「遠く揺らめいた嘘」ではないか――

という思いがよぎるようになっていった気がします。

 

大ヒットした『裏表ラバーズ』

恋愛にも汎用できるようなテーマですが、

 

そこでは「現実直視と現実逃避」の矛盾、

まさに「裏表」の乖離が歌われていたのでした。

 

その「乖離」を文字どおり体現するのが『ずれていく』でしたし、

「積み木崩しの衝動」や「痛み」は大きくなっていきます (『積み木の人形』)。

 

こうしてやがては

「もう一回、もう一回」とぐるぐるその場を回るだけの、

「まだまだ先は見えない」状況に陥り (『ローリンガール』)、

 

ミク・ルカという二人の歌い手を模索しつつも、

「さがしても さがしても 見つからない」という「終末感」のなかで

(『ワールズエンド・ダンスホール』)、

 

「こんなに疲れているのに」「迷い迷って 辿り着いたそこがハッピー?」、

と嘆く徒労感に行き着いてしまって・・・ (『アンハッピーリフレイン』)。

 

そしてwowakaさんはボーカロイドの歌声にいったん距離を置き、

自分のバンドヒトリエでの活動へと重点をシフトさせていったのでした。

 

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【3】共存 

 

それから約6年、

ヒトリエでも活躍したwowakaさんは『アンノウン・マザーグース』という、

新たなミク曲をひさしぶりに発表してくれました。

 

そのときわたしたちが驚いたのは、

曲中に「僕」「あたし」が共存していることでした。

 

初音ミクという別人格は、「架空」というより、

「拡張身体」のようなものに移行していると感じたのです。

 

それは「逃避」でも「嘘」でもない。

 

「僕」だけが本物でもないし、

「あたし」だけに飲み込まれるのでもない。

 

wowakaさんはこの曲の発表時に、

2つの活動とも、「僕の中では完全に地続き」と語っています。

 

その「共存」というあり方が、

「僕」「あたし」の両方を守るために、

wowakaさんが見つけ出したアーティストとしての「拡張」だったのではないでしょうか。

 

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「僕」にとって虚構でも真実でもない「あたし」

 

これを「共存」させられるようになったwowakaさんが、

今後ヒトリエボーカロイド(あるいは別のかたち)で、

どんな表現活動へと「拡張」していけたんだろうと思うと、

ものすごく残念でなりません。

 

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こういった「拡張身体」的な作品づくりを、

最初から直観的に/意識的に行っている人もたくさんいます。

(このブログでは、そういった楽曲を扱うことが多いです)

 

でもあくまで「俺、俺、俺。」にこだわったwowakaさんが、

だからこそこうした問題に真正面からぶつかって懊悩し、

そしてひとすじの解決を見出していったその足跡は、

 

これからのクリエイターの方々にも、

きっと一つの大切な道筋を教えてくれるのではと思います。

 

「心臓を抱えて生きてきたんだ!」と、

「僕」「あたし」のそれぞれが重層的に歌えることの強さ。 

 

「本当の自分」に縛られて、

表現の限界と不自由さにぶつかっている全ての人に届きますように。 

 

ご冥福をお祈りいたします。