~ 歌詞でよむ初音ミク 197 ~ 学校を休んだ日のこと
「仲間はずれ」のこだま
牧歌的な物悲しいメロディーと歌詞から、胸をかき乱す音の洪水に飲み込まれる作品。クラブとは程遠いのにクラブで流しても最高に気持ちよさそうなさみしい一曲です。曲・詞ともに、きくおさん。
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とてもシンプルな歌詞が語るのは、
タイトルのとおり「学校を休んだ日のこと」。
たまたま一日、風邪で休んじゃっただけかもしれません。
理由はなんであれ、
自分が居なくてもなんにも変わらないという
おそろしい事実に突き当たった小さな震えが歌われています。
それだけじゃなく後ろめたさや、焦りや、さみしさや、
もしかしたらどうにもできない怒りのようなものもあって、
「ぼく」の心のなかで、
全部ないまぜになった抽象的で衝動のような音が濁流を起こします。
そこに、抉るように紛れ込んでくるのは、
学校の中に満ち満ちている日常の、みんなの、世界の、
いろんな音のサンプリング的暴風雨なのでした。
だけど「ほんとは」、
みんなに追いつくとか、遅れを取り戻すだけじゃなくて、
自分と同じような「仲間外れも探してる」のです。
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あたりまえですが「ぼく」は「みんな」ではありません。
というか誰一人として、「みんな」そのものにはなれません。
つかの間だけ「みんな」の一員になったフリはできるけれど、
一人になれば、いつでも「みんな」から取り残されてしまいますし、
別々の人間として生まれてしまった以上、
孤独というのは誰もが背負う宿命みたいなものです。
この曲が切り取っているのはとても身近で小さな場面ですが、
この曲が描いている
"自分なんか居なくても、みんなはなんにも変わらない" という感覚は、
ものすごく宗教的(きくおさん的)で奥の深いテーマな気がしました。
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さて、
"誰だって「みんな」ではない" としたら、
「おいてかないで」というその孤独は、
"誰だって" 感じざるをえないのかもしれません。
となるとこの曲のラストは、
「仲間はずれ」の痛みだけは分かち合えるかもしれない、
というふうにも聴こえてきます。
幼げな日常を歌いながら、
こんな深淵を感じさせることができるのは、
やっぱりきくおさんの稀有な感性ではないでしょうか。
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ちなみに余談ですが、
――「みんな」とつながれなくても、
「仲間はずれ」という痛みだけは分かち合うことができる――
というところに、
ふと以前このブログでも扱った
kzさんの『never ender』を思い出しました。
「つながっていくこと」だけじゃなくて、
「散らばっていくこと」(そして遠くで呼応しあうこと)。
それって、この曲と重なるものがあるような気がして。
遠くかすかな「仲間はずれ」たちのこだまを、
ミクさんの歌声は響かせてくれているのかもしれないです。