~ 歌詞でよむ初音ミク 126 ~ 妄言と箱庭

1人のなかの分裂した2つの声

とってもエモい「VOCALEAMO」タグ。ミクさんのジャンルでいえば「ミクリーモ」です。Lilyさんと2人での珍しい楽曲で、ハードコアな重めの楽曲のなかに、まったく特徴の異なる2つの声がうまく共存しています。曲・詞ともに午後ティーさんです。

 

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いきなり核心のシーンから始まると、

鮮血を思わせる赤に染まっていく腕を見ながら、

「私」はこれでようやく「救われる」と呟いたのでした。

 

ところがそんな救いは「まやかしだ」という声が聞こえ、

その血はまだ生きている「証なんだ」と涙を流す人が駆けつけました。

 

彼女にとっては、命を終わらせることだけが、

苦しみを生きのびるためのようやく見つけた術だったのに。

 

病室でしょうか、「朝の来ない箱庭」で眠りつづけている「私」。

時計の秒針がひたひたと進み、あいもかわらず「命の音」を奏でています。

 

矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、

いまの彼女の生を支えている希望は、

「果ての見えない暗闇」の先に、出血と死を思わせる「狂い咲く真っ赤な花」だけなのです。

 

「私はもう 私を続けたいと思えない」と感じてしまった彼女は、

"パパとママが交わった夜" のことを恨み、妄言のように「私なんか初めから生まれてなどいなかった」と言い残して、この曲は終わっていきます。

 

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一見デュエットのように見えますが、2つの人間がやりとりするわけではなく、

だからといってただ単に一緒にユニゾンして歌っているだけでもありません。

 

わたしには面白いことに、

この2つの声は、1人の語り手の分裂した2つの側面のような気がしました。

 

ミクさんの静かなパートは、生への諦めで細く弱々しく感じるものですが、

Lilyさんの歌う力強いパートは、もっと激しく死を求めることで、逆説的に生のエネルギーに満ちたものに聴こえてきます。

 

死に向かってはじめて、生が意味を帯びるということがあるとすれば、

それはたしかに矛盾してはいるのですが、それがわたしたちの生きるということの避けがたい仕組みなのかもしれません。

 

強く死を求める彼女自身は、そのことに気づいていないとしても、

彼女のなかの2つの声は同じことを歌っているようで別々のエネルギーに支えられているかのようです。