~ 歌詞でよむ初音ミク 69 ~ 「VOCALOID」の脆弱性。
VOCALOID固有の表現とは何か
「感性の反乱 β」タグ。断片的な音が反復され積み重なっていくうちに、引き締まった「音楽」へと発展していく快感に満ちた作品です。歌詞は「吐息」のみ。これが単なる効果音の一つであればこのブログで取り上げることはないのですが、それはれっきとした歌詞であり、「吐息」が歌詞であること自体に批評性を持たせています。曲・詞ともにHaniwaさんです。
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普段は、テクスト論に基づいて歌詞に焦点を絞っているのですが、この曲では動画に付された文章によって、「吐息」が歌詞となっていく仕組みなので、パラ (副次) テクストとして参照してみようと思います。
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さて、まずは「VOCALOID」とは何かというところから文章が始まります。この曲は、ミクさんが「吐息」を延々歌わされることから分かるとおり、"命令への徹底した従属" を切り口にしています。
完全に従属するということは、自発的に生きることができないということであり、
つまりVOCALOIDにおける「人格」や「人間的背景」の不在が改めて浮き彫りになります。
そこでこの曲は、音程や息継ぎに限らず、広い意味での「人で無い歌声」というVOCALOIDの不思議さに注目しているのです。言いかえれば、自らの意図をもたない声、まさに「無機質 機械的背景」だということ。
その違和感を逆手にとって、非人間的なキャラとして積極的に価値を与えたのが、初音ミクを始めとするVOCALOIDにほかなりません。人間の声の劣化コピーとして虐げられてきたものが、"ホンモノ" という基準から解放されたことで、仮歌用=人間の声の代理物ではなくなったのです。
――それなのに、VOCALOIDが人間の声に近づくこと、あるいは人間の歌と変わらないVOCALOID曲を求める人たちがいる――というのがこの曲の問題提起になっていきます。
彼らは、VOCALOIDがせっかく得た固有の価値を自ら放棄しようとしているのではないか。肯定すべき違和感・差異を隠蔽してしまうことで、VOCALOIDは人間が歌うのと変わりないポップミュージックと同じ土俵にふたたび上げられ、消費されて捨てられるのではないか、と。
したがって、この曲がわたしたちに喚起しようとするのは、
VOCALOIDとはその出自からして「墓地でしか生きることのできない音」のようなものだったはずではないか、ということです。
駆逐され、誰の目にも止まらず消えていくような、脆弱すぎる音楽。受け入れられなかったもの、塵箱へ捨てられていたもの、嫌悪されるもの・・・そういったものを「許可」することこそ「VOCALOID」なのではないか。
それは大衆受けする音楽からすれば、騒音でありガラクタであるかもしれないけれど、それが音楽であり美しいのだ――この曲が「人で無い歌声」の「脆弱性」を愛おしむのはそういった理由からなのでしょう。
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このブログもまた、VOCALOIDが人間ではないことの魅力、に共感しています。とりわけ「人間的背景をもたない」「無防備な音」といった表現は、そういった感覚を巧みに捉えていて、とても美しいと感じました。
VOCALOIDにしか表現できない歌を!というような希求、「何がVOCALOID的で、何がVOCALOID的でないか」という境界画定の問いは、自分のジャンルに自己言及的なすべての前衛芸術 (アヴァンギャルド) が試みたことと同じ根をもっています。
たとえば文学的なセリフ劇に支配されていた演劇が、演劇の固有性とは何かという問いから始めて、身体性という要素を取り戻していったこと。単なる記録メディアでしかなかった映像が、編集やモンタージュという映像固有の要素を見つけていったこと。写真が登場したことによって危機に瀕した絵画が、マチエールという絵画固有の要素を再認識していったこと。
その意味で、VOCALOIDだからこそ表現できる音楽や、VOCALOIDが歌わないと意味のない音楽の探究は極めて重要であり、また胸を熱くするものがあります。
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ですが、言語的な面からアプローチしているこのブログでは、
この人間vsボカロ論争について、もう一つ別のルートがあるように思われます。
人間が歌っても普通に成立するような曲が、「人で無い声」に歌われることによって別の意味をもつ、というパターンをもっと評価してもいい気がするのです。
もう少し正確に言うと、「人間的背景のない声」が歌うことによって、むきだしの言語そのものが露呈すること、そこから意味が拡張され、多様な意味が生産されること。
そして、そうやって作品が作り出す場面や意味ごとに、歌っている側の「人格」が逆形成されていく・・・そういう形のVOCALOIDの固有性もあるのではないでしょうか。
なぜならそこには、歌っている側に ”人格がない” からこそ、 「感情を込めすぎない」「過剰な演出をしない」「自己肯定感を漂わせない」「勝手に自己陶酔しない」 等のおかげで、聴き手を積極的に「作品そのもの」へ向き合わせる機能が隠されている気がするからです。
反対に、なんでもない凡庸な言葉が、何らかの「人間的背景」を知ることによって、ものすごく重い意味に変わることだってある、と言えば分かりやすくなるかもしれません。
要するに、音声的に考えると「人の歌声」と「人で無い歌声」は対立して二者択一になってしまいますが、言語的に考えると「言語という共通のメタ空間」があるので、その空間のなかで別の機能と特性をもった2つの発話者タイプと考えられるのではないでしょうか。
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ちょっと堅苦しい書き方になってしまいましたが、
これって、多くのVOCALOID好きが自然とやっている楽しみ方のような気がします。
このブログも、特定の「人間的背景」に依存しなくても作品世界の豊かさを汲み取れるという、まさにVOCALOID的な自由さや楽しさ、面白さのもとで書かれていると思うのですが、
そう簡単に答えが出るわけもなく、まだまだ考えていく必要がありそうです。
そんな問いかけをつづける見事な作品だと思いました。