~ 歌詞でよむ初音ミク 60 ~ カルデネ
衛星が軌道から外れるとき
「オルタナティブミック」タグ。静と動のドラマチックな対比が演劇的であり、ミクさんの調教もかなり特徴的な作品。楽曲の壮大さを思うと、そのまま星のことでもいい気がしますが、出てくるシーンの日常性から考えるとおそらく比喩のようです。曲・詞ともに、はるまきごはん さん。
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カルデネとは、木星(ジュピター)の数多くある衛星の1つ。
その由来はギリシャ神話にあり、ゼウスの無数の愛人のうちの1人、カルデーネーです。
「僕」は、そんなカルデネのような存在の「あなた」に思いを馳せてしまったよう。
「カルデネの前の景色を 誰が見たというのさ」。
目立たない存在で、ないがしろにされながらもジュピターに繋ぎ止められている「あなた」は、いまどんな景色が見えていて、何を考えているのでしょう?
そんなことを思いながら、
「僕」は、目の前にいる「あなた」の瞳を呑みこむように眺めています。
知らないことをすぐに訊いてくること。帰りの駅で珈琲を買って飲むこと。
彼女の何気ない仕草にちらつく「誰かの悪い癖」「誰かの真似」。
一緒にいるときに鳴る彼女の携帯電話。「何か」が呼んでいる。
おそらく「誰か」「何か」とは、いわゆるジュピターのような人のことでしょうか。
ジュピターにとって、「あなた」はその他大勢の一人でしかありません。
そのことは彼女自身だってじゅうぶん分かっているはずですが、
いつまでも「知らないふりも出来ないから」、自分に嘘をついてごまかしている。
いっそこの僕が、あなたの手をとってあげたいと思うけれど、
それは彼女が「誰か」の影響で飲んでいる珈琲に、勝手にミルクを注いで味を変えてしまうようなもので、ためらいがあります。
だけどもし、カルデネがジュピターの軌道から外れたら?
そして代わりにこの「僕」が、彼女の愛を呑みこんだら・・・。
僕は、「あなた」が望むような景色を見せてあげられるのだろうか。
カルデネが、ジュピターの記憶から外れようとしているとしたら、
その先の景色に、「僕」はいるのでしょうか。
そのとき彼女の視界に「僕」は入っているのでしょうか。
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以上は、再構成の一例のようなものですが、
それはさておき、あまりにも大きな木星のすがたを考えてみるのも良いと思います。
そして不釣りあいに小さな衛星カルデネの弱さと切なさ。
そんなカルデネとの関係について、「僕」が一歩踏み込むサビに入るたび、
一気に音楽的な情報量が増えるラウド的な展開となります。
まるでミクさんの声をかき消すようなノイズぎりぎりと言えるくらいの盛り上がり。
そのことが逆にタブーであることを感じさせるのではないでしょうか。
"演劇的" と書きましたが、それは楽曲だけでなく歌詞にも言える気がします。
大事なサビでわざわざ疑問文が用いられるとき、言語的にも一気にスポットライトが当たっていて、ぐっと関心を惹きつけるようになっているのだと思います。
※ちなみに、ロックなはるまきごはんさんのオリジナルに対して、ドラムンベースを採用したJun Kurodaさんの素晴らしいリミックスがあります。
こちらでは、サビに入ると逆に動から静へ、
ドラムスが止み、足場が抜けて空中に浮かんだような静謐に入ります。
それはむしろすでに引き返せないところにまで踏み込んでしまったかのようで、オリジナルとは反対の演出によって、気づかぬうちに歌詞の意味合いもズラすような見事なカバーになっています。